『蓬莱学園の革命!』2巻・大晦日限定公開

S「……というわけで、あっというまに大晦日ですよ。今年は早いなあ」
M「新城さんにしては珍しく非論理的な発言ですね」
S「いや、来年に較べると、本当にちょっとだけ早いんだよ。2009年元旦は、あれのおかげでちょっとだけ」
M「って、いちいちそういう小ネタはいいですから。さっさと原稿公開してください」
S「おっとそうだ。それではお待ちかねの方も、初めて蓬莱学園という名前を目にした方も、以下どうぞ。ちなみに、このあいだの限定公開よりもちょっと多めです」
M「え、そうなんですか!?」


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    蓬莱学園の革命! 2              940716〜





    登場人物の紹介

折川育郎/ピエトロ・パルメッティ……本編の主人公。蓬莱学園一年己未組。ふとした事
        から、学園を「もう少し心地よく歩ける場所にする」という夢をいだく
        も、すぐさま巨大な困難に直面する。
野々宮花江……蓬莱学園鉄道管理委員長。三年生。育郎の「夢」と「巨大な困難」の双方
        を生み出した張本人。
槙………………花江の忠実な執事にして秘書。学園の化学教師でもある。
マリィ…………謎の女性。墨川で出会った育郎に、夢を実現するよう励ます。
野々宮皐月……育郎のクラスメート。野々宮家の三女で、花江の妹。
安城チカ………皐月の親友。育郎のクラスメートにして悪友。学園北部にあるオンボロ集
        合住宅〈無担保荘〉に住んでいる。
山根みどり……育郎のクラスメート。皐月とチカの親友で、三人そろって八雲生徒会長の
        大ファン。
テオドール・ザールウィッツ……三年生、学園銃士。現在は皐月のピアノ家庭教師として
        生活費を稼いでいる。実は学園非公認新聞〈外套と短剣〉の編集主幹で
        もある。
八雲睦美………蓬莱学園第七四代生徒会長。三年生。エリザの協力を得て、ひそかに円満
        卒業をたくらんでいる。
エリザ…………本名、エリザベート・伊方。蓬莱学園執行部第一書記。三年生。睦美の腹
        心の部下にして親友。彼女の「秘密円満卒業計画」を手助けする。
ジョシュア・ゲイルズバーグ……蓬莱学園副会長。三年生。通称『微笑む宰相』。二級生
        徒問題の解決を含む学園改善計画〈八雲プラン〉をもくろむが、実施直
        前、『委員会センター爆破事件』によって阻まれる。
ヴァーシャ……本名、ワシーリィ・ドミトローヴィチ・マルーシュキン。ジョシュアが集
        めた秘密スタッフ「FOG」の一人。情報分析担当。
ズィア…………FOGの一人。潜入&調査担当。〈八雲プラン〉遂行のため、ヴァーシャ
        と共に鉄道管理委員会へ潜りこむことになるが、その直前に『委員会セ
        ンター爆破事件』がおきてしまう。
マドロン………FOGの一人。ジョシュアの秘書役。チカと同じく、〈無担保荘〉の住人
        でもある。
さよ姫…………本名、長下部紗世。FOGの一人。経理担当。
チェラル………FOGのメンバー。以前は軍事系団体の二級生徒だったが、ジョシュアが
        学費を立て替えて、現在は普通の生徒として暮らしている。八雲会長の
        護衛も務める。
杣木勝秀………学園教師。五〇代前半★。★担当。土木研の顧問で、〈無担保荘〉の古参
        住人。
ハリエット……〈無担保荘〉の住人。学園教師。三〇代。社会担当。
ユージェニー…〈無担保荘〉の住人。赤毛の女生徒。
北の旦那………〈無担保荘〉の住人。在学一〇年の古参生徒。
寝泊まり婆ぁ…〈無担保荘〉の食堂にいりびたる奇怪な老婆。









    第一部  計画     (承前)

        第Ⅲ編 無担保荘の人々


        「理性的な者は自分を世界に合わせる。非理性的な者は
         世界を自分に合わせようと奮戦する。よって、全ての
         進歩は、非理性的人間にかかっている」
                    ——G・バーナード・ショオ

        「何かに関して理性を失わないような人間は、最初から
         失うべき理性を持っていないのだ」
                    ——G・E・レッシング





            1 〈無担保荘〉の日常というのは、たいてい以下のごとし



        (その一……まずは独唱がはじまる)

「来たわ! そうよ、ついに来たのよ!」
 ハリエット・マーヴィン女史は大声で宣言した。
 三十路の婦人が発するには、ケタはずれの音量であった。絶叫というよりも、むしろ熱唱に近かった。
「生徒たちにとっちゃあ好き放題の、わたしたち教師には骨休めの三ヶ月! 熱気と日焼けの三ヶ月! 毎朝、通勤電車で押しつぶされなくていい……あの不便な中央校舎に通わなくてもいい……憎ったらしい小悪魔どものお守りをしなくてもいい……奴らを教室に押し込んだり、黒板消しを投げつけたり、マイクに向かってがなりたてなくてもいい!
 奴らは檻から放たれたわ、わたしたちの元から!
 さあ、わたしたちは夜更かしができる! 笛野の森の木陰で、誰にも邪魔されずに読書ができる! この九十日間で、学園がどれだけグシャグシャになろうと、かまうもんですか……奴らは好きなだけ、学生寮を空っぽにして修学旅行に行くがいいわ。体育倉庫の鍵をぶち壊して、中で酒盛りをするがいいわ。花火大会をやって、徹夜でビデオを観て、弁天女子寮に忍び込むがいいわ!
 そのあいだじゅう、わたしたちは自由な時間を、生徒のセの字もない本当に自由な時間を過ごせるんだから! おお、自由! なんて甘くせつない響きなんでしょう。おお、無責任! おお、やりたい放題! おお、自由、自由、自由!」
 よく訓練された美しいソプラノは、〈無担保荘〉一階にある食堂の古びた壁と、そこに集まった十数人の観衆の魂を、大きくゆさぶった。築六十年の集合住宅にとっては大変な負担であった。そして住人一同にとっては、いつものことであった。
 彼らはそれぞれ好き勝手な場所に、思い思いの格好で陣取っている。あるいは座り、あるいは立ち、団扇をあおぎ、冷えた麦茶をすすり、はたまた天井の梁に片手でぶら下がっては、もう一方の手で酒瓶を干す者もいる。秩序はなかったが、その代わり、全員に共通する雰囲気があった。
 彼らはのこらず楽しそうだった。
 頬は紅潮していた。目は、ぱっちりと見開いていた。ハリエットの叫びが、だんだんと美しい歌声になっていくのにあわせて、体を揺すり、足踏みをし、テーブルの端や椅子の肘掛けをリズミカルに叩いた。証拠はそろっている。事の次第は明らかだ。あらゆる小さな部分が、ひとつの大きな全体の存在を指し示していた。
 夏休みになったのだ!


        (その二……物事のきっかけは、たいてい手違いに他ならない)

 〈無担保荘〉に折川育郎がやって来てから、ちょうど二週間目。永遠と思われた期末試験も、ついに終わった。風向きは西から南にとって替わられた。水平線の彼方では、小さな低気圧が反時計まわりの回転をはじめる頃だ。墨川の水面は忍び足で堤防のすそ野に近づいている。女生徒たちのシャツの生地はさらに薄くなる。教師たちは頭のネジをゆるませる。水不足のためにあちこちで断水がおきる。女子寮の自動販売機ではメロン味のかき氷が一日に三度も売り切れる。
 それが夏だ。
 夏休みだ。
 あらゆるものを解放するべく、魔法の季節が到来したのだ!

 ……のだが、〈無担保荘〉ではいまだに、育郎の部屋割りが決まっていなかった。
 最初の夜からして、不運は始まっていた、といえよう。育郎は、べっとり湿ったモップや雑巾と共に、一階の物置部屋で過ごしたのである。おかげで、焼き肉のタレと★ショウガの臭いが、朝にはすっかり染みついてしまった。
(……これ以上のひどい夜が、あるもんか!)
 と、あわれな少年は確信した。
 杣木教諭も——どうやらこの大男が〈無担保荘〉の部屋割りを管理しているようだ、と育郎は推測したのだが——その彼も、
『だいじょうぶ、だいじょうぶ! 〈無担保荘〉にゃ、いつだって空き部屋があるんだ。とくに行き場所のない困った一年坊主のためにはな!』
 と保証してくれた。そして約束どおり、翌晩には、二階の東端にある小さな部屋があてがわれた。
 しかし二日目の夜もまた、折川育郎は一睡もできなかったのだ!
 隣の二〇二号室には、〈北の旦那〉とよばれる古参生徒が住んでいた。ただし、一〇年も学園に居座り続けれた生徒というものは、本当に生徒なのか、実は教師なのか、はたまたそれら以外の邪悪な存在になってしまったのか、見分けることはとても難しいのだが。
「おまえさん、できるかい?」というのが、部屋を覗きに来た旦那が発した最初の言葉だった。
「なにがですか?」
 育郎は、それなりに敬意をこめて返事をした。本心は、さっさと眠りたかったのだが、先輩を邪険にするのも後々まずかろう、と考えたのだ。
 たいていの不幸とは、そうやって始まるものである。
「決まってんだろ!」旦那は、ぽっちゃりとした両手を肩幅に広げて、二組の親指と人差し指とで、小さなネジを回すような仕草をした。ちょうど彼の胸の前に、目には見えない細長い蛍光灯があって、その両端をクリクリいじくっている……そんな格好である。
「?」
「これだよ、これ」
「???」
「わかんねえか?」
「全然」
「いかん、いかんなあ!」彼は派手にため息をついて、ふくよかな顔を左右に振った。両頬の肉もまた、すこしばかり遅れはしたものの、優雅な横向きの運動を追いかけた。彼の細い目は、悲しみのためにいっそう細くなっていた。
 育郎は、自分がひどく罪深い事をしてしまったような錯覚におちいった。
「い、いけないんですか?」
「うむ、こりゃあいかん。まったくいかん。記念大講堂の広大な天井裏に誓って、絶対いかん! 高校一年にもなって麻雀を知らんなどとは! よし、しかたない。ここは俺っちが一肌ぬぐとしよう。ほれほれ、P太、こっちこっち」
「え、で、でも明日まだ期末試験が……」
「まぁまぁまぁまぁまぁ。みんな待ってるから」
「でもしかしあのボク」
「まぁまぁまぁ、まぁまぁまぁまぁ、まぁまぁまぁ」
 旦那が発する軽快な七五調「まぁまぁ」の渦に呑まれるようにして、気がつくと育郎は二〇二号室へ入っていた。
 あわれな一年生が解放されたのは、ようやく十七時間後であった。ただし、そのときには十七時間分の負けを……つまり夕食代に換算すれば四十日分の借金を、北の旦那につくっていたのだが。
 所持金三十四円の一年坊主からガッポリむしり取るにあたって、旦那はこれっぽっちも良心を痛めなかったのである。
「流れってやつよ、流れ!」と彼は朗らかにいったのだ、「良いもある、悪いもある。すねちゃいけねえが、酔ってもいけねえ。世の中なんでもかんでも、星まわりが肝心だあね。ま、そのうちP太にもツキがまわってくるから、そんときまた来な、相手してやるぜ! おっとそうだ。今日の晩飯、俺っち一階で食うから、払っといてな」
 かくして育郎の放浪時代がはじまった!


        (その三……悲劇は常に喜劇的である)

 ひと休みする間もあらばこそ、育郎はそのまま、誰もいない三〇六号室へ逃げ込んだ。しかし、そこもまた安息の地ではなかった。部屋は理由もなく空室だったわけではないのだ。
 前夜の疲れから育郎は、床に転がって眠りこけていた。ところが夕方になると、床下から真っ黒な煙がのぼってきた。煙は、すぐさま部屋いっぱいに満ちた。真下の厨房からしのびこんできたのだ。もしもピエトロの嗅覚が警報を発しなかったら、そのまま永遠に眠り続ける羽目になっただろう。
「……なんだよ、これ!」
 すんでのところで彼は目を覚ました。そして、真っ黒で醤油臭い部屋の空気にむかって叫んだ。答はなかった。無言のまま、煙は、床からむくむくと沸き出てくるばかりである。彼ははげしく咳こんだ。
「なんだこれ! なんだこれ!」
 しかしピエトロは、くじけなかった。これしきのことで、くじけてなろうか! 二晩つづけて旦那にむしられるよりは、煙と殺し合いを演じたほうが何倍もマシというものだ!
(さてどうする、どうする! そうだ、とにかく穴をふさがなきゃ!)
 彼は廊下にとびだした。折りよく積んであった板きれを二、三枚ひっつかむと、ポケットから釘と金槌を取り出した。休部を強制させられたとはいえ、土木研部員として当然のたしなみである。
 ピエトロは猛然と金槌を振りおろした。
(どうだ、ざまあみろ! こん畜生め、〈無担保荘〉め! とことん直してやるぞ!)
 あっというまに、穴は塞がれていった。だが、六本目の釘を打ちこもうとしたとき、天井がガタガタと揺れて、こんな大声が降ってきた。
「ちょいと、誰よ、夕食どきにうるっさいわね! 明日もまだ試験があるのよ! 明日も、あさっても、週末までずっと! 今すぐそのトンカチを止めちまってよ!」
「こっちは生きるか死ぬかのとこなんですよ!」少年は怒鳴り返した。「試験がなんだってんですか、ボクなんか今日のテストを三つもすっぽかしてんだから!」
「知らないわよ、そんなの! トンカチを止めるか、でなきゃ、あたしの赤毛にかけて、あんたの心臓を止めに降りてっちゃうから!」
「やれるもんならやってみろ!」ピエトロも、今さら退けないので、わざと強い口調でこたえた。
「なんですって!!」
「なんだよ!」
「なによ!」
「なに!」
「動くんじゃないわよ!」
 天井がきしみ、どたどたと階段を降りてくる音がした。育郎は扉を蹴り開けると、戦いに備えてぐっと両足をふんばった。
 ……そして次の日の朝。
 ピエトロは三〇六号室をあきらめ、四〇一号室に移っていた。
 なぜか?
 彼は真実を学んだのだ。〈無担保荘〉の長く激しい舌戦史上、マドロンことマドレーヌ・ラ=トゥール=パニエール嬢に勝てたのは、食堂にいりびたる『寝泊まり婆ぁ』くらいである、という動かしがたい真実を!

 さいわいにも、四〇一号室へ忍び込んでくる煙はなかった。邪まな遊戯を教えてくれる先輩が隣に住んでいるわけでもなかった。もちろん、先住権を主張する生徒もいなかった。にもかかわらず、育郎は夕方までに引っ越しする決心をかためていた。
 部屋の東側と南側の壁が、まるごとガラス窓になっていたからだ。
 実際、亜熱帯の巨大学園において、窓という存在ほど重要なものはない。あらゆる生徒の運命を、窓は握っている。古い生徒たちは真実を知っている……彼らは宇津帆島の一年をこんなふうに形容するのだ……六ヶ月が暑い夏で、残り六ヶ月とは〈もっと暑い夏〉である、と!
 窓は命綱である。と同時に、死刑執行命令書にもなりうる。
 生か死か? 決め手は、窓がどちらを向いているかだ。正しい方位を向いているなら、生徒を至福の楽園へ連れてゆくことができる。〈陽のさしこまない方角〉に向いてさえいれば!
 しかし、仮に窓の向きが間違っていたら……ああ、もはや彼に希望はない!
 烈しい直射日光が無理やり押し入ってくるのだ。悪徳大路で一番タチの悪い借金取りでもこれほど図々しくはあるまい、というほどに。熱は溜まる。湿気は立ち退きを拒む。窓を開ければ熱風が吹き込み、閉じれば息ができなくなる。扇いでも腕がくたびれるだけ、かといって部屋から逃げ出せば、本棚に置いた大切な本がゆがみ、ビデオテープがとろけ出し、扉はあまりの暑さで見る見るうちに湾曲し、二度と中に入れなくなるのがオチだろう。
 そして、実際にそのとおりであった!
 ピエトロが国文の試験を終えて〈無担保荘〉に帰ってきたときには、以上の事柄がすべて済んだ後だったのだ。諦めるしかなかった! さもなければチェックのスカートを履いて弁天女子寮にでも忍び込むしかなかった!
 彼はチェックのスカートを履かないことにした。つまり、ピエトロの自尊心にスリーサイズがあったとすれば、女生徒の制服をまとうには太すぎたのだ。
 代わりに少年は、次の空室を捜し求めるべく、さらなる未知へと旅立ったのである。


        (その四……努力は無駄に終わることが多い)

 さて、この頃になると、ピエトロは〈無担保荘〉のつくりをすっかり熟知していた。
 熟知というのは、文字どおりの意味であって、つまり建物の構造が少年の頭の中に、丸ごとしまい込まれていたのだ。これは〈無担保荘〉に限ったことではない。生来の勘の良さなのか、こと建築物に関しては、足を踏み入れてしばらく中を歩くだけで、どんなものでも一つのこらず、正確な立体図を、好きなときに、好きなように、心に思い描けるのである。
 さらに彼は、自由自在に方向を変えて、それらを眺めることもできた。屋根と壁をとりはずし、骨組みを露わにすることもできた。部屋の位置を組み替えて、思うままに建て直すことさえできた。
 〈無担保荘〉は、育郎の記憶のなかで、一種独特の地位を占めていた。今までに見たこともないような、不思議な形をしているためである。
 それは左右に翼をひろげたまま、仰向けざまに、巨大な鳥が背後の崖に向かって倒れ込んだような姿をしている。
 胴体にあたる中心部には、住人全員が集まれるほどに広い食堂と、横長の厨房がある。もっとも、両者を仕切る壁は半分以上崩れていた??一本の太い樹の幹が、その場所を占領しているためだ。
 この幹がくせ者だった。
 樹木は〈無担保荘〉最大の特徴であり、また難物でもあった。
 食堂は二階まで吹き抜けになっているが、樹はそのまま天井を貫き、さらに三階と四階の真ん中を独り占めし、屋根の上にまで伸びて、立派な枝を幾本も生い茂らせている。根は深く広く張っていて、一階の床はどの部屋でも多かれ少なかれ凹凸がある。
 樹に名前はなく、それはただ『樹』だとか、『幹』だとか、『邪魔な樹』であるとか、さらには『あの、ほれ』などと呼ばれる始末である。しかし誰一人としてこれを切り倒そうと考える者はいなかった。育郎も何度か、空想の中で『樹』を建物から取り外そうとしてみたが、不思議なことに、どうしてもできなかった。
 ちなみに食堂の両隣には、一階から四階まで吹き抜けの空間が一つづつある。東側には螺旋状の階段が設けられている。西側にはなぜか何も無く、がらんどうのままだ。彼の直感は、それが『樹』のせいではないかと告げていた。なんらかの妖しいバランスを保つために、わざと一見無意味な空間が残されているに違いない。
 さらに、ほぼ東西にのびる四層の両翼は、いくつかの個室と物置と洗面所になっているが、これらも『樹』の影響をこうむっているのでは、と彼は疑っていた。部屋は一つのこらずいびつだった。どれ一つとして同じ形のものはないが、広さはほぼ同じに仕上がっている。考えぬかれた見事な設計というよりも、酔っぱらった製図係と生真面目な大工が、互いの誤解に気づかぬままに、仕事を進めてしまったような印象なのだった。
 ……そうしたわけで、ピエトロは〈無担保荘〉を頭の中でまわして空室を探そうと決心した際、『樹』の存在にできるだけ気づかないふりをした。左右どちらから回しても『樹』は邪魔だったが、我慢してしばらく続けた。
 やがて必要な答が見つかった。
(そうか……一階の西の奥に、もう一つ部屋があるはずだぞ! 空いている部屋が!)
 しかもその部屋は、歪んだ五角形であり、床はわずかに傾いており、縦長の出窓が北を向いており、壁の色は薄い水色で、天井には大きな長い出っ張りが二つほどあるに違いない、というところまで彼には見当がついた。
 ピエトロはすぐに駆け出した。
 だがしかし……

「こらこら、ここはダメだ! 入っちゃいかん!」
 そう叫んで、扉の前で少年を止めたのは杣木教諭だった。
「どうしてですか!」
 ピエトロは叫び返した。
「ここは空いてるんでしょ? 空いてるはずです、絶対に! ボクはちゃんと判ってるんだ、騙そうたってダメですよ! 証明だってできるんだ。ここの住人がボクをいれて十一人と夫婦一組だから、使っているのは十二部屋。〈無担保荘〉の部屋数は十七、でも『樹』が二つつぶしてるからホントは十五、それから煙と日射しのせいで人の住めない部屋が二つ。残るは十三! だからここは空いてるんだ! 今晩こそは絶対に安眠……」
「どうどうどう、落ちつけ、折川!」杣木は、暴れる少年を必死で押さえつけた。「たしかに住人も部屋の数もそのとおりだ、ここも塞がってるとは言い難い、そりゃ間違いない! そこまでは認めるぞ」
「やっぱり! やっぱり!」
「いいから落ちつけってば! だがな、この〈無担保荘〉じゃあ、空いてるから安全てわけじゃないんだ。お前だってそれくらいは、分かってるだろうに」
「ここには煙も侵入してこないし、陽当たりは悪いし、隣は便所だから麻雀好きの先輩なんかこれっぽっちも住んでない!」
「ははあん、旦那にヤラれたな。まあ、予想はついとったが……もとい! それにしても、ここだけはいかんぞ、入っちゃいかん」
「なんで!」
「なんでって……」
 そのとたん、何のまえぶれもなく、『一〇七』という数字の書かれた扉が開き、くしゃくしゃの白髪を振りながら、醜悪な老婆が、廊下に顔を突き出した。
「ちょいと、うるさいね、いま何時だと思ってるんだい! お昼の二時だよ、眠れやしないよ! 昼間のうちに寝ないでおいて、いつ寝るんだい。教えてほしいもんだね。目上の者に対する仕打ちがこれかい、年寄りをいじめてそんなに楽しいかい! まったく最近の若いもんときたら!」
 扉は開いたときよりもさらに速く、ただし今度は猛烈な音をともなって、閉じられた。
 ピエトロは驚きのあまり身動き一つできずにいた。
「な?」少年の栗色の髪を撫でながら、杣木がいった。
「い、いまのは?」
「〈寝泊まり婆ぁ〉だ」
「!」
 少年は、頭の中で建物を再びぐるぐる回してみた。住人の顔ぶれを思い出してみた。一人ひとり、部屋に割り振ってみた。何度やりなおしても、あの老婆は、いつも食堂か風呂か、どちらかにいるはずだった。いってみれば、彼女は住人ではなくて、家具のようなものだったのだ。
「そんなバカな! どうして、どうして?」
「あの婆ぁさん、気がむいちゃあ、この部屋で休んでるんだ」
 まるで何かをおそれているような、ささやき声だった。
「この部屋ん中を見た奴は、一人もいない。あの、いつもの常連爺さんたちだって、扉のとこまで婆ぁを運んで来たら、目をつむって、ポイっと放り込んで、そこまでさ。たしかに普段は食堂に入り浸りだ、うん。それは確かだ。ほとんど席をはずさない。だからって、いつ何時、ここで……この〈おそるべき一〇七号室〉で、あいつがうごめいてるか、知れたもんじゃないんだ。なにしろ戦前から生きてるんだから……いや、へたをするともう一つ前の戦前から、かもしれん! とにかく、ここだけは御法度だ。わかったな? 不用意に近づいたりしようもんなら……」
「どうなるの?」
「ちょん切られるぞ」
「……!」
「うんうん」杣木は独りで勝手にうなずいた。
 どこがどう切られるのか、少年はあえて訊ねなかった。はっきりした答を知るのが恐かったからである。
 男子生徒なら本能的に感じとれる脅威、というものがある。ある種の話題は、彼らを凍りつかせる。杣木教諭の言葉の裏にひそんでいたのは、まぎれもなく、その一つであった。
 そんなピエトロの心を見すかしたように、大柄の教師は、つけくわえた。
「いいか、よく憶えとけよ。どんな場所にだって、絶対に踏み込んじゃならんような、とっぷり暗ぁい箇所ってのが、必ずあるもんなんだ。どんな場所にもな」
 ああ、それにしても、なんということだ! 最後の希望を失った少年は、がっくりと廊下に膝をついた。頭の中で〈無担保荘〉をまわしてみる気力すらなかった。部屋は無いのだ、どこにも無いのだ!
「やっぱりあの時、川から起き上がるんじゃなかった! あすこで溺れ死ぬか、でなきゃここで野垂れ死ぬか、ボクの運命は二つにひとつだったんだ!」
「なんだそりゃ」
「いえ、なんでもないです。ちょっと落ち込んでるだけで」
「ふむ!」杣木はしばらく思案した。「あれか、やっぱり二〇一号室に戻るってんじゃ、ダメか?」
「ボクに死ねっていうんですか!?」
「うむ、まあその……ううん、旦那も加減てやつを知らんからなあ。ええい、しかたがない!」彼はついにこういった。「最後の手段だ。折川、俺と部屋を替わろう」


        (その五……「解決策」とは「引き延ばし工作」の従兄弟である)

 しかし、それで事態がおさまりはしなかったのだ!
 その日のうちに育郎は一〇一号室へ入り、杣木教諭は二〇一号室へ荷物を運び込んだ。すると今度は、北の旦那が叫び出す番であった。
「なんであんたが隣に来なくちゃいけないんだ!」隣室の扉を蹴り開けるなり、旦那は叫んだ。
「しかたないだろ」杣木教諭は肩をすくめて、「俺だって好きで移ってきたわけじゃない。一番いい部屋を譲ったんだ」
「で、まさかこのまま、ずっとここに居座るつもりじゃないだろうな」
「そのつもりだが?」
 北の旦那は、わなわなと震えだした。顔は真っ青になっていた。彼は両手をばたつかせ、髪をかきむしり、ほんの一瞬だけ杣木教諭の太い首に伸ばしかけたが、なんとか思いとどまると、何もない空間にむかって正拳突きを数発くりだすにとどめた。「俺っちに死ねってのか!?」
「なんだそりゃ。折川の真似か?」
「教師が同じ階にいると、ツキが落ちるんだよ! こないだもはっきり言っといたじゃないか! あの晩は西入して三本場だったんだ、俺っちんとこには半年ぶりの十三面待ちが入ってたんだ、それをあんたが……」
「そうだったかな。うん、ああ、そういえばそうだ。思い出したぞ。うんうん。あん時は悪かったな。おやすみ」
 杣木はそれだけいって、薄い煎餅布団にもぐり込んだ。
 いっぽう旦那はといえば、ほとんど聞こえないくらい甲高い悲鳴をあげながら、自室へとって返した。もちろん、彼自身が部屋を替えるために、である。

 そして彼が先住者を追い出して引っ越した先というのが……他ならぬ文無し少年の隣、一〇二号室であった!
 今度は育郎が悲鳴をあげた。もはや、礼儀にかまってはいられなかった。美徳と礼節、この愛すべき双子の淑女たちも、睡眠欲を前にしては席を譲るしかないのだ。少年は一匹の野獣となった。そして二〇二号室に押し入った。
 旦那と部屋を交換したばかりの住人は、わけもわからぬうちに獣と化した少年に追い出された。
 その住人は階上の部屋に逃げ込んだ。すると三〇二号室に居た者は、西の端にある三〇六号室へ走り、両者がもめている間に隣室のマドロンが「眠れない」といって引っ越しの準備を始め、彼女の向かった先でまた一悶着がおこり、その翌日には『寝泊まり婆ぁ』が不平を言いだし、二階の洗面所ではトイレット・ペーパーのぶつけ合いがはじまった。
 あと一歩で、〈無担保荘〉は崩壊するところだった!
 ひとりの異邦人を受け入れるために、建物と住人は、まるごと寝返りをうっているようなものだった!
 あるいは、いったん呑み込んでから、後で消化不良をおこしているようなものだった。
 あちらを直せばこちらが怒る。ここを宥めれば、むこうが落ちつかない。ある者は引っ越したおかげで洗面所から遠くなったと不満を漏らした。別の住人は、上の階に移ってきた奴の重みで天井が毎晩きしんでいる、といって譲らなかった。毎日どこかで、誰かしらが不満を爆発させていた。
 〈無担保荘〉は、木材というよりも雰囲気で出来ている。柱の代わりに習慣があり、壁の代わりに人づきあいがある。どこか一ヶ所をいじるだけでも、全員を巻き込む騒ぎとなるのだ。
 騒ぎは、とどまるところをしらなかった。期末試験週間が終わり、夏休みがはじまっても、あいかわらず続いたのだ。三日に一度は、誰かが『全住人および関係者による緊急集会』とやらを召集した。そこで問題は討議され、解決案が示され、実行され、半日と経たないうちに別の不満がもちあがり、怒鳴り合いと部屋の交替がおこなわれてから、また次の集会が催される。その繰り返しだ。
 ……そんなわけで、ピエトロが〈無担保荘〉を訪れてから二週間目の今日はといえば、元四〇五号室の住人で現在は二〇二号室の主たるハリエット・マーヴィン女史が、皆を食堂に呼び集め、怒りのほどをぶちまける番だったのである。



            2 少年は、どのようにして夏休みを過ごすべきか?

「……ハリエット、ハリエット! 今が夏休みだってのは、じゅうぶん判ってるわよ。あんたがどれっくらい、この季節を好きかってこともね!」
 食堂の真ん中で大きな安楽椅子に座っていたマドロンが、両手をメガホンにして怒鳴った。賛同のうなり声があちこちで湧きおこった。
「で? いったい今度は何が問題で、その問題と夏休みとは、どういう関係があるってわけ?」
「あるわよ、大ありよ、これ以上ないってくらい、関係があるわよ!」女性教諭はこたえた。「いいこと、学園生徒は今こそ自由なのよ。あたしたち教師に、さらなる自由を与えるために! どこかへ消えて無くなるべきなのよ! 自由ってのは、でっかい距離のことなのよ! 他人の目のとどかないところで、好き勝手をすることなのよ! たとえばマドロン、あなたは昼間、どこでどうしてる?」
「ど、どこって……ええと、部室に行って書類を整頓したりとか、委員会センターでお手伝いとか」
 マドロン嬢は少しだけ早口になった。なぜといって、実をいえば彼女は夏休みがはじまってから、あのジョシュア副会長の部下としてひそかに働いていたのだが、〈無担保荘〉の住人はもちろんのこと、学園中の誰にも秘密だったからである。
 しかし、質問には何も深い意図など無かったようで、
「そうでしょう? そうでしょう?」
 と、ハリエット先生が歌い、酔いのまわった老人たちがあちこちで声にあわせて体を左右に揺するにとどまった。
「だからどうしたのよ。あたし、悪いことしてる?」
「いいえ、マドロン、あなたは関係ないの。あなたは普通よ、とっても普通! それが……あたしの下に住んでる、この子ときたら! いったいどこへ出かけてると思う? この素敵な夏の日に! どこにも! どこにも出かけないのよ! 一日中、部屋にこもってるのよ! あたしの真下に!」
 この子、といって、彼女は一人の住人を指さした。
 他ならぬ折川育郎である。
 いきなり指名されて、彼は頬を紅潮させた。恥ずかしさからではない。間近に迫った戦いに備えるためである。
「おかしいわ、絶対におかしいわよ!」
 ハリエットはかまわず続けた、
「たとえば、そこにいらっしゃる可愛いチカちゃんみたいに、朝も早よから出かけていって、女子寮別館で変テコリンなチラシやらポスターやら同人誌やらをつくって??ゴメンねチカちゃん??とっぷり暗くなるまで帰ってこないとか、でなきゃお友達と一緒になって厨房で砂糖だらけのお菓子をつくっちゃあ生徒会執務室へ持ってったりとか、さもなきゃ一晩中、あのうざったい携帯電話でペチャクチャお喋りしてるとか、どうしてそういう、他の人の邪魔にならない暮らしができないわけ?」
「ちょっとちょっとお……」
 はじめに『可愛い』といわれてニコニコしていたチカだったが、だんだんと不機嫌になって、壁ぎわから一歩踏みだした。
「この集会、誰のケリつけようってのよ。P太? それともあたし? アヤつけんだったら、相手になったるわよ!」
「あら、そんなつもりじゃ……」
「そうは聞こえなかったぞお!」
「ストップ、ストップ!」マドロンが椅子から立ち上がって、二人を制した。「順番に、きちんと、混乱なしで! じゃないと、閉会を宣言するわよ!」
 そういわれて、チカは大人しく壁ぎわに戻った。ハリエット女史は、すこし恥ずかしげに咳払いをしてから、手近にあったコップから一口だけビールを飲んだ。
 この場を仕切っているのは、あくまでもマドロン嬢なのだ。
 〈無担保荘〉でおこなわれている、独特の方式であった。初めての『緊急集会』がひらかれた時には、ピエトロは驚いて杣木におもわず訊ねたものだ、『……あのぉ、先生がここの下宿、管理してるんじゃないんですか?』
『いいや。なんでだ?』
『いや、その、なんとなく』
『俺がやってるのは、新入りの品定めだけさ』というのが答であった。『その時は俺が全責任を負って、みんなを集める。部屋割りとか、荷物の置き場所のことで集会がひらかれる場合は、マドロンが仕切る。なにしろ彼女、物事を整理するのが大好きらしいからな。で、食い物のことならハリエット、雨漏りの話は浜坂の旦那と奥方の二人で、泥棒と水道と伝声管のことはチカが万事決める。だいたいそんな感じだ』
 育郎に限らず、新参者は初めこそ奇妙に思うのだが、慣れてみると確かに筋の通った話であった。想像してみるがいい! 誰かがひとりで、ここのすべてを仕切ろうとしたら、どうなるか? 三日ともたずに神経性胃炎で倒れ込んでしまうに決まっている!
 〈無担保荘〉は、古いだけあって、さまざまな安全弁を持っている。歳月は場所を賢くさせる。そして今この瞬間は、マドロンが食堂の心臓であり頭脳であった。
 さて、そのマドロンが再開の合図をおくると、
「……しかも、ただ部屋にこもってるだけなら、まだしも!」と、再びハリエットの叫びは華麗な独唱となった。「昼となく夜となく、突然大声で叫びだすのよ! それもイタリア語で! 『そうだ、わかったぞ!』だとか、『ああ、どうしよう、どうやって判ってもらおう?』だとか、『素敵だ、なんて綺麗なんだ!』だとか、『解けた! 解けた!』だとか。わたしが歌の練習をしているときにかぎって、真下から、『わかった、わかった』! わざとやってるの、それとも何か悪魔的な因縁が、わたしの美声とこの子の若くて腐った脳味噌にあるのかしら? どっちにしても、耳ざわりったらありゃしないわ! いっとくけど、べつにイタリア語に偏見もってるわけじゃないわよ??なんてったって一番のお気に入りはパヴァロッティですもの??でもね、前触れもスポットライトもなしに、まるで訓練されてない男の子の甲高い悲鳴が床をゆするのだけは勘弁だわ。おまけにそこにいる北の旦那なんか、彼の真似をして麻雀で勝つたんびに『解けた!』『解けた!』だもの! そのうち〈無担保荘〉の正式な挨拶に採用されかねないわよ。
 いったい何なの、あの無意味な叫びは? 何を解いてるっていうの? みんなも聴いてるでしょ、迷惑でしょ、被害にあってるでしょ? どうなの? んん?」
 数人の居住者と、食堂にたむろする老人の幾人かが、申し訳なさそうにうなずいた。
「そうよね? そうよね!」とハリエット。「問題だわ、問題なのよ! あたしの平穏はどこへ? あたしの自由は? 許されないわ、〈無担保荘〉に自由がないなんて! あたしは断じて……」
「ちょっと待った! そんならボクだって、いわせてもらうぞ!」
 ピエトロが叫び返した。
「あんたばかりじゃない、こっちだって迷惑してるんだ! 『歌の練習をしてるときにかぎって』ボクが床を揺るがしてる、だって? そっちの大声こそどうなんだ!? 毎朝、起きぬけに、ボリューム調整のスイッチが壊れたステレオに鼓膜を直撃されてさ、気がついてみりゃ、それが上の階の住人のドラ声なんだぞ! ボクの自由は、権利は、夏休みは? ボクの部屋の天井をミシミシいわせて窓をビリビリ震わせてるのは、どこのどいつだってんだい、こん畜生め!」
 鋭い一撃だった。ハリエットはおもわず身をすくめ、住人たちの半数ほどは気押されて、うなずいてしまった。
 十四日ぶんの時間が、育郎の言葉遣いをすっかり変えていた。もはや敬語なる代物は見あたらなかった。それはすっかり擦り減っていた。かけらも残っていなかった。
 いってみれば、彼は〈無担保荘〉語を学びとっていたのだ。
 敬語とは何か? 尊敬をあらわすための語彙だ、しかしそれだけではない。それはたっぷり間をとって話すことだ。口を動かす前に考えるということだ。敬意は、費やした時間によってあらわされるのだ。
 しかし〈無担保荘〉に、そんな余裕があるだろうか? 贅沢が許されるだろうか? ここでは、すぐさま反論しなくては生きてゆけない。礼儀正しい言葉が生き延びる余地はない。素早い反撃だけが、より良い生活を確保できる。
 ここは、舌と身ぶりの修練場なのだ。
「男の子らしく、おもてで遊びなさいな!」ハリエット女史が応酬すると、
「へえ! 夏休みってのは、外にしか無いのかい? なんて不自由な〈無担保荘〉だ!」育郎も押しかえした。
「屋根が欲しけりゃ、補習授業をどうぞ!」
「ぜんぶまとめて呪われちまえ、好き勝手に暮らせない建物なんか!」
「あんたが来ないなら、どんな処でも素敵な場所だわ!」
「なるほど、ハリエット先生ときたら、死ぬまで女子用便所に居たいってさ!」
「それじゃあ、下水はあんたにあげる!」
「なにを!」
「なによ!」
 罵倒は容赦なく続いた。住人たちはテニスの試合でも観るように、一方に顔を向け、また一方に向きなおって、両者の戦いを堪能していた。
「はい、そこまで!」
 とうとうマドロンが宣言した。美声の女性教諭と貧乏一年生の発言が堂々巡りになりかける、まさにその寸前だった。
「言い分はぜんぶ出尽くしたわね! どっちもどっち、このままじゃあ喉がつぶれて治療費がかさむだけ、喜ぶのは保健委員会の連中ばかり……というわけで!」
「いうわけで?」一同が、声をそろえた。
「決着は、丸いテーブルでつけること!」
「丸いテーブルで!」
「皿なの、それともジョッキ?」とハリエットが叫んだ。
「どっちにする、ピエトロ?」審判であるマドロンが彼に尋ねた。躊躇なく答が返ってきた。
「皿だい、もちろん!」
 全員がどっと沸いた。まばたきする間もなく、巨大な丸テーブルが食堂のただ中に登場した。ハリエットは自信満々といった様子で、ふんぞりかえった。育郎も負けじと、背伸びをして鼻から荒々しく息を吐いた。
 住人たちは我先に厨房へ飛び込み、てんで勝手に材料をきざみ、炒め、かき混ぜ、盛りつけた。丸テーブルは脂ぎった料理で一杯になった。
 〈テーブル審判〉が始まったのだ!


            3 テーブル審判と〈不在の部屋〉

 ひとことでいえば、それは大喰い競走なのである。
 〈無担保荘〉には古い伝統がいくつも生き残っている。はるか昔……とはつまり、ほんの半世紀前、学園の前身がまだ本土にあった頃だが、その古き良き時代の名残が今でも息づいているのだ。
 テーブル審判!
 〈無担保荘〉以外の場所では、すっかり失われた風習だ!
 しかし古きものたちは、世界の片隅でこそ、こっそりと生き残る。たとえば、ついつい捨てずにおいた玩具のように。あるいは、ビデオテープの終わりあたりでいつまでも消されずに残ってしまう古い映像のように。そして、いつの日か再び、新しい利用価値を見いだされて復活する日を、じっと待っているものなのだ。
 この木造集合住宅において、たいていの『緊急集会』は白い丸テーブルにたどり着く……という事実を、育郎は二週間の経験から学んでいた。意見が食い違った者同士は、テーブルをはさんでにらみ合う。厨房からは、たくさんの料理が運ばれてくる。肉料理が主だが、時には魚だったり、タロ芋だったり、はたまた誰も名前を言い当てられない奇々怪々な生き物の残骸だったりもする。いずれにしても、準備には全員が参加する。そもそも、審判と食事とは相性がいい。食べれば会話もはずみ、酔えば本音が出る。食べているときは本性が顕われる。肉を噛みちぎりながら、心を隠すための言葉なぞ、あやつることはできないのだ! さあ、テーブルをぐるりと囲め! 料理を運べ! じっと見守り、押し黙り、あとはどちらの言い分が正しいのか……そいつは胃袋の強さによって決めようじゃないか!
 二週間前の育郎であれば、一言、「なんて無駄な、なんて不公平な、なんてバカバカしい方法だろう!」と憤慨したにちがいない。
 しかし、大昔の遺物が生き残っているのには、それなりの理由があったのだ。

「……ようい、スタート!」
 マドロンが合図をした。と同時に、二人の対戦者は、目の前の韓国風焼き肉と野菜炒めをむさぼり始めた。食堂は騒然となった。
「ハリエット! ハリエット!」老人たちが合唱する。
「ピエトロがんばれ! 折川、負けるな!」数人がやり返すが、相手方の迫力に押され気味だ。
「ハリィ! ハリィ! ハリィ!」
「食っちゃえ、P太! ぶちかませ、ハリィ! どっちも頑張れ、ほーれほれ!」
「負けるな! 止まるな!」
「食え! 食え! 食え! 食え! もっと、もっと、もっと!」
 盛んに湯気のたつ料理を、住人たちは次から次へと運びこみ、女教師と少年の前に積み上げる。もはや観客はいなかった。一人のこらず給仕に変身していた。大声で怒鳴り、〈樹〉の右側を走りぬけ、皿をテーブルに置き、声援をおくり、空っぽの皿を競争者のかたわらへ積み上げると、今度は〈樹〉の左をかすめて厨房へとって返すのだ。
 このとき、何も知らない観察者がこの状況を見たとすれば、ピエトロは圧倒的に負けている、と感じたであろう。
 なにしろ、まずハリエット女史の胃袋が底無しだった。ふだんであれば美声があふれ出る穴へ、とてつもない量の肉と油と香辛料が吸い込まれていくのだ。餃子も、★春巻も、ユッケもビビンバも、口に含まれたと同時に噛み砕かれる。彼女が「ごくん!」と喉を鳴らすたびに★風味の鶏肉が消え去る。「もう一丁!」と叫ぶたびに鯵の干物が姿を隠す。なんという食欲、なんという体力!
 驚異をとおりこして、ほとんど荘厳ですらあった!
 ちょうど、神話に伝わる大地の女神が何気なく「さあてと、そろそろこの世界にも飽きたし、今まで産み落とした森羅万象をぜんぶ回収するとしようかねえ!……」と考えるや、おもむろに実行にうつしてしまった——まるでそんな具合だったのだ。
 さらに、観客の大半は彼女に声援をおくっていた。北の旦那、『寝泊まり婆ぁ』、かなめ姐さん、そして〈無担保荘〉にたむろする大勢の老人がすべて彼女の味方だった。いっぽうピエトロを励ましているのは、杣木の他に気の弱そうな若者が二人、それから古参生徒である浜坂氏とその奥方ぐらい。チカにいたっては単に騒ぎを楽しんでいるだけらしく、双方に向かって同じくらい「がんばれ! がんばれ!」と矯声をあげる始末だ。
 どちらにも属していない住人といえば、マドロンとユージェニーの二人のみ。ただし前者は中立な審判たらんと努めていただけだし、後者は、たまたまこの場に居合わせなかったにすぎない。
 公平にいって、ハリエット女史の勝利は間違いなさそうであった。
 だが……ピエトロに焦りはない。
 なぜか? 彼は学んでいたのだ。〈無担保荘〉では、外見は往々にして正しくない、ということを。
「ほいよ、今度はヤムイモ海老炒飯じゃぞ!」
 老人のひとりが大皿を、テーブルの真ん中、すなわちハリエットとピエトロのちょうど中間に置いた。少年はさりげない仕草で、かすかに皿を女教師のほうへ押した。実に見事な、あまりにも微妙な動きであった。ハリエットは気づかずに炒飯をほおばった。と、顔色が一瞬だけ変わった。
(やった!)
 ピエトロは心の中で万歳をした。ついでに、スキップで〈無担保荘〉のまわりを一周した。
(やった、やった! 唐辛子かな、それとも塩の塊かな? どっちにしたってハリエットのやつ、文字どおり一杯食ったわけだ!)
 これが〈テーブル審判〉の隠れた効用だった。
 学園の片隅で、こんなムチャクチャな風習が生き残っている理由だった。
 ピエトロは知っていた。学んでいた。そのチャーハンを運んできた老人は、本心では自分の味方だということを。おおっぴらに少年の肩をもちたいのだが、『寝泊まり婆ぁ』の仕返しが恐くて、正直に行動できないのだ、ということを。
 本心をあらわせないのは、一人だけではない。彼らは見えないところで手伝うことができる。給仕であるうえに、守護霊にもなるし、暗殺者にもなれる。なにげないそぶりで味方になってくれるが、味方のふりをして実はひそかに命を狙っているかもしれないのだ。
 ピエトロはそのことを、しっかりと学んでいた。
(これが〈テーブル審判〉なんだ!)
 誰が敵か? 誰が友軍か? 見極めた者だけが、〈審判〉に勝利できる。胃袋が強いだけではダメなのだ。ふだんから隣人に冷たくあたっていれば、思わぬところでしっぺ返しをくらうだろう。正しい主張をする者には、胃腸に優しい料理がふるまわれるだろう。強さが勝つのではない、声にならない声が勝つのだ。仲間がいなくては。誰かに助けてもらわなくては。
 なんとも、うまい仕掛けの法廷ではないか!
 古いものには、生き残るだけの理由がある。時の試練を生き抜いてきた風習というやつは、きちんと設計されている。まるで立派な塔のように。ただし普通の塔とは、まったく逆の手順で造られるのだが。塔は基礎から順につくっていく。風習は、いってみれば屋上から造られる。床がとつぜん空中にあらわれて、自分自身の足場を組み立てていくのだ。つくりはじめた時には、はたしてきちんとできるかどうか、誰にもわからない。というよりも、ちゃんと出来上がったものだけが「昔からの風習」と呼ばれ、いっぽう途中で崩れてしまったものは、誰も憶えていないにすぎない。
(なんて奇妙な建物だろう! なんて馬鹿馬鹿しい、それでいて、なんて面白い建築だろう!)
 上から建てようが下から建てようが、いったん建ってしまえば区別はない。あとはそれを利用するのか、しないのか。問題はそれだけだ。
 そしてピエトロは——折川育郎は、わずか二週間で正しい利用法を見抜いていたのだ。

「……ストップ!」
 と、マドロンが右手を上げて全員の動きを止めた。まもなく午後になろうかという時であった。育郎の隣には四十枚の皿が斜塔をかたちづくっていた。ハリエット女史の足元にも、一見してほぼ同じ枚数が積み重なっている。
 観客はどっと近寄って、
「なんだなんだ」
「どっちが勝ったの?」
「まだでしょ?」
「わしゃ便所に行きたいんじゃが」
「勝ったのは誰だ?」
「誰だ? どっちだ?」
 一同、こんどは合唱団に早替わりである。
「ピエトロ?」
「ハリィ? ハリィ!」
「いいや、折川だ!」
「ハリィじゃ!」
「ハリィ、ハリィ、ハリィ!」
「育郎! 育郎!」
「よおよお、まだ終わってないじゃんかよ、マドロンてば!」チカが、極彩色の中華皿をくるくると人差し指の上で回した。「どっちもまだ気絶してないし、ゲロ吐きながら床をころげまわってるんでもないし……あやや、食った枚数まで同じじゃん! 次の皿ぁ持ってこいよ! 決着つけよ、決着!」
「なんてこと!」しかしマドロンは呆然と立ったままだ。顔色は真っ青だった。茶色の瞳は左右にゆれる。かわいらしい鼻をひくひくさせた。まるで道に迷った仔犬である。
「なにがさ」とチカ。
「なにもかにもないのよ、引き分けだわ!」
「何ぃ?」杣木が立ち上がり、マドロンに詰めよった。「白いテーブルに引き分けなんかないぞ! 昔からそう決まってるじゃないか! そうとも、俺は一九六九年からここにいるが、その間これっぽっちだって、そんな馬鹿げた事はなかったぞ! たとえ墨川が伏里山まで逆流して記念講堂がひっくり返ったって、ありえない! ああ、うん、そういえばたった一度だけ、途中で止まったことはあるにはあったが、あの時は……」
「その、『あの時』と同じなの」赤毛の娘は肩をすくめた。
「そんな!」
「そうなのよ」
「それって、まさか」チカが震えた。
「底だ」杣木がいった。「食料庫が底をついたんだ!」
 全員が口をあんぐりとあけた。幾人かは、長くて粘っこい唾液を、だらりと垂らしさえもした。
 チカが中華皿を床に落とした。もの凄まじい音をたてて、皿はまっぷたつに割れた。
 それが合図となった!
 一同は、ちょうど陽気のせいでイカレてしまった鴨の群れのごとく、いっせいに★わめきたてた!
「なんだと! 馬鹿な! どうして止めなかったんだ! 責任者出てこい! あたしじゃないわよ! あんたのせいだ! どうしてあたしが!? 馬鹿P太! こんな事は二〇年間、見たことも聞いたこともない!! 神様! 仏様! わし、便所に行ってもいいかな?」
「どうすればいいんだ、どうすれば?」杣木教諭が、頭をかかえた。そして大きな図体を左右に揺らしながら、「いや、うん、やるべきことは判ってる。一つしかない。それも、ちょうど案配のいいことに、問題が解決できるんだ。できるんだが、これはしかし、あぁ、ううん、なんてこった!」
「なにを一人前に悩んでんだい、この若造が」といって、『寝泊まり婆ぁ』が両足を踏みならした。床は二人分の体重に耐えかねて、ぎしぎしと気味の悪い音をたてた。「さっさとやっちまいな。グダグダいってても、お天道さんが無駄足ふむだけだよ!」
「どういうこと? やるって何を?」
 育郎はだんだんと不安になってきた。〈無担保荘〉の奇妙な風習を一つ残らず学んだわけではないのだ。いった何をやるんだろう? まさか、このボクを、ばっさりと……
(ちょんぎられるぞ! ちょんぎられるぞ!)
 つい数日前の、杣木の声が、頭の中でこだまする。
(ああ、まさか!? まさか! 空っぽになった食料庫に、代わりにぶち込まれるのは、もしかして……!)
 というところで、ようやく彼の問いに答えたのは、赤毛のマドロン嬢であった。
「あのね、えーと……決まりがあるのよ。なんでかってのは、あたしも知らないんだけど、食料庫をカラにした人はね、四〇四号室で暮らさなきゃいけないの。とにかく、そうなってるのよ」
「四〇四……」
 育郎は考えた。四〇四号室? ということは、四階の真ん中あたりだ。でも、そんなことがありえるだろうか? 頭の中で〈無担保荘〉をゆっくりと回転させて——彼は真っ青になった。答は一つしかない。
「だって、だって、四〇四号室なんか無いじゃないか! あすこは、ちょうど『樹』の幹が突き抜けてるところなんだから!」
「無いってわけじゃないわ」
「じゃあ、あるの?」
「ある、というほどでもないんだけど」マドロンは目線をそらし、歯切れ悪そうにこたえた。
「?????」
「行けばわかる、行けば!」すかさず杣木が宣言した。「百聞は一見に如かず、あるいは我らが学園創立者・穂北眞八郎先生にならえば、『まずそこへ行くことから知識は始まる』!」
 数人の老人が拍手をした。チカは大きくうなずいた。ハリエットは、お腹をさすりながら、天井を仰いだ。その他の住人たちは、互いの顔をみあわせた。当惑したというよりは、新たなアトラクションを期待する★おももちである。
 ただひとり、『寝泊まり婆ぁ』だけは事の成り行きに興味を失っていた。彼女は体じゅうで欠伸をすると、
「もう終わりかい? じゃあ、あたしゃ休ませてもらうよ! まったく、なんて騒ぎだい!食うだけ食って、暴れるだけ暴れて! 最近の若い連中ときたら、始末におえないよ……ほれ、あんたら、とっととあたしを風呂場まで運びな! 脳天カチ割られたいのかい!?」
 拍手をしていた老人たちは大慌てで、巨大な老婆を運び出した。
「うんうん、まあそれはそれとして……では行こうか!」
 杣木のかけ声と共に、残りの住人たちは、まるで先頭のピエトロを押し流すように、ぞろぞろと階段を登っていった。



            4 四〇四号室のピエトロ

 みしみしと鳴る階段をのぼりつめると、杣木は★四角い扉を蹴り開けた。
「これが四〇四だ!」
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S「……というあたりで、それではよいお年を〜」