「ほんとうに相互理解は至上の価値なんだろうか?」

S「……というような話を続けたいと思いますが、その前にM君から電話が入ってきましたので、そちらの応対を。もしもし?」
M「もしもし、本物のMです。なんだかここ数日の僕の書かれようを見ていると、受け答えがぞんざいになってきてるようなんですが。もうちょっと人間的に豊かな感じに表現してもらえません?」
S「と言われてもなあ。このブログに登場する君は今のところ大半フィクションなわけだし、ある程度機械的に相づちを打ってくれないと、こっちとしても面倒なんだよ。ごめんね。それに、そもそもこっちのM君が人工無能じゃないとはまだ決まってないわけだし」
M「えー!……いや、もういいです。それで今日は仕事の話なんですが」
(以下、仕事の話)
M「……ではまたその時よろしくお願いします。ガチャン」
S「えーと何の話だっけ。ああそうだ、(完全な)相互理解が本当に素敵なことなのか、だった。そもそもこの議論を最初に誰かとしたのは、T君とだったんだけど」
T「そうでしたっけ」
S「そうだよ。たしか、ニュータイプってどうなのよ的な話で盛り上がってて、新城が『ニュータイプは完全に解り合えるっていうけど、それって気持ち悪い』みたいなことを言ったら、さらに盛り上がってしまって」
T「僕は基本的に、よりよく解り合えることは善いことだと思いますけど」
S「世間一般でもそうらしいんだけど……うーむ分からん! だってさ、例えば君がニュータイプだったとして、1+1=3だと信じてるニュータイプZ氏と完全に解り合えてる状態になったら、その時いったい具体的には何が起きてるんだ? 君とZ氏は1+1=3にもとづいた世界把握を共有してるのか? 君のほうがZ氏のヘンテコ理論に洗脳されてるのか? 君は『ああZ氏はアホなことを信じてるなあ、でもそれもまた良しだ』とZ氏の歪んだ世界観を肯定/黙認してるのか?」
T「つまりあれですよね、相互理解って言った時の理解っていうのは、相手の意見への完全な同調なのか、意見の存在を是認しているのか、意見内容を正確に認識しているだけなのか」
S「さらに付け加えると、そもそも『(相互)理解』っていうのは客観的事実についてのことなのか、誰かの脳内の意見についてなのか、はたまた感情についてなのか……という問題もある。アムロとシャアが完全に理解し合った場合、ララアが死んじゃった責任問題についても二人は合意できるのかな?」
T「うーむむむ」
S「ようするに、完全な相互理解があるがゆえに絶対に停戦できない悲惨な争いが始まってしまう——という可能性を新城は考えてしまうわけですよ。だから、世間の善良な人々が『もっとお互いに解り合えば』とか言い出した時には、『いや、それは必ずしも安全や幸福への一本道じゃないですよ』と言いたくなる」
T「でも、じゃあどうすりゃいいんですか。誤解し合ってるよりも理解できたほうが良くないですか?」
S「うーん。常にそうとは限らないような気がする。誤解のおかげで幸福になれる場合もあるだろうし、誤解にもかかわらず幸福かもしれないし、理解したから幸福というケースも、理解のせいで不幸なケースも、いろんな組み合わせがありえる。『相互理解の度合い』と『幸福』は、あんまし因果関係がないような気がする……あるいは理解と共感とは実はかなり異なる観念である……っていうあたりが新城の率直な意見なんだ。わかる?」
T「うーん」
S「いや、解りにくい話なのはよく解ってるんだけど。まあ、このへんの記事が参考になるかも」
M「で、今日の話にオチはあるんですか」
X「それはやっぱり、この話題のカテゴリーが『新城の仕事』になってるあたりじゃないのか?」
M「ってまたいきなり謎の人物が!」
S「まあ、オチがない場合にヒット数がどれだけ伸びるか伸びないかという実験でもあるので、そこはあんまし気にしないでいこう。そんなこんなでこの話題、また続くかもしれません。以下次号!」
M「連載小説ですか!」