ガザ戦線2009における完全な相互理解と、西部戦線1914における聖誕祭

……みたいなことを今日書こうと考えてたら、なんと昨日のエントリのコメントでずばり先読みされてしまいました。うひゃあ。
このショック(良い意味で)を表現するため、今日は会話体ではなくて、もうちょっと普通のブログっぽい文にしてみました。

で。
とりあえず、今回の戦闘(というか戦争)の是非やら「どっちのほうが悪い」論やら「民間人を巻き込むなんて酷い」論やらは、電子の大海原に浮かぶ他のたくさんの皆様にお任せするとして。
また、もうちょっと冷静で出来のいい論も、やっぱりお任せするとして。(諸々あるなかで、id:Baatarismさんから教えてもらったこの記事は参考になりました:まだブログ初心者なので引用言及の仕方に御無礼ありましたら平にご容赦を。)

新城がここ数日の話題の流れの中で考えていたのは、現在戦っているハマスイスラエル軍ぶっちゃけ、かなり高い精度で相互理解してるんじゃないの?ということなのでした。
もちろん、定義によって戦争というのは「相手の痛いところを突く」ところから複雑に発展してゆくものなので、当然ながら「相手がどこを痛いと考えているか」「相手はこちらに痛いところを悟られないように、どのような偽情報を発信しているか」「こちらは相手の痛いところを知っているけど、そのことを相手に知られないようにするためにはどのような偽情報を……」云々、みたいなことにならざるをえないわけです。このへん詳しい話は、すでに二千五百年くらい昔にこの方が書いてますので、そちらを参照してください。

で、問題は。
そもそもここで用いられる「(相互)理解」とは厳密には何を指すのか?
日本語における「理解」、英語ならばunderstanding、に含まれている「相手の事情や気持ちを察する」という部分をどのように取り扱うべきか?
共感なくして理解している場合、ものすごい惨劇に至ることもある……というか、往々にして至るのではないのか?
というあたりなのです。新城としては。

とはいえ、だからといって共感さえしてりゃいいのか?というと、人類史を見渡せば「大勢の人々が共感しすぎて、マスヒステリー状態になって、よけい大変なことに」式の惨劇も散見されるわけです。いや、もしかしたらこっちのほうが多いぐらいかも。

そんなこんなで、この話題は「だからどうしろ」とか「人の生きるべき道はこれだ!」みたいな教訓話にはなりようがないので……そもそも新城カズマという人間はそうした「〜すべきだ!」主義から一番遠いところでグウタラ暮らしている人間なので、その手のオチを期待してる方々にはたいへん申し訳ないんですが……今の自分にできることといえば、せいぜいこんなリンクを張ってみるくらいなのです。

もしくは前回とは全然別の意味合いを込めて、この画像↓をもっぺん貼ってみるとか:


(画像内英文の新城的な強引訳:
戦争は終わるのにね
……もしほんとにそれが君らの望みならば、だけど」


さてはて。僕たちは、ほんとうに平和を望んでいるのでしょうか?……