新城カズマはどんなふうにしてtwitterで遊んでいるか

S「……というような話題が、先日都内某所で野上武志画伯と会食した際にありまして。おお、これでブログ一回分のネタになるなあと」
M「そういえばどうして昨日は何も書いてないんですか。ここんとこ、3のつく日にしか休んでなかったのに」
S「うん、昨日は眠かったので一日中寝てた
M「こっ……(いや、もはや何も言うまい! 諦めろ、諦めるんだ、自分!)……」
S「だって眠かったんだもーん」
M「もういいから、twitterの新城的使い方を語ってください。そして、さっさと僕を解放してください」
S「わかったわかった。えーと、そも新城はtwitterのどこを気に入ったかというと、手軽さ、その場限り主義、みたいな点はもちろんながら、ユーザそれぞれが実に人それぞれの使いかたを実践してるのが良いなあと思ったわけです。
たとえば、簡便メールソフトとして使うこともできる。ブログとしても使える/もしくは併用できる。あるいは古典的チャットとしても充分使用に耐える。さらには……これは新城の主な使い道でもあるんですが……アイデア・メモとして使い勝手が良い。ちょっとした思いつきをアップすると、時刻は明記されるし、書いた順番に並んでるし、気に入らなけりゃ削除もできるし、時には世界のどこかから自分の生煮えアイデアに対して助言やヒネリを入れてくれる人さえいたりする。実に素晴らしい!
個人的におすすめなのが、twitterのフォローする/される関係を一種の『迷路』と見立てて、ぐるぐるとさまよってみる遊びです。たとえば、自分をフォローしてる人をフォローしてる人をフォローしてる人を……と遡っていって、もとの自分のところまで戻って来れるかとか、あるいは逆に何フォロー以内に狙った有名人まで辿り着けるかとか。他にも、面白いアイコンだけを辿っていくとどこまで行けるかとか、メガネ女性のアイコンを探してどんどん進んでゆくとか……」
M「なんかもう幼稚園児みたいですね」
S「でもインタ―ネット黎明期の熱気を憶い出したのは本当だよ。全体を見渡せないワクワク感というか、絞りきったスリットから情報空間を覗き見する『不便さの中の愉しみ』というか。
継続的なコミュニティを濃ゆく維持したいならmixiとかのほうが圧倒的に便利だけど、一瞬でしかない/だからこそ触れ合いが重要に感じられるtwitter感覚も捨てがたいのですよ。関係が続かない、今この瞬間に終わるかもしれない、そして実際に終わる、だけどまた逢える、だからこそ楽しい。みたいな」
M「なんか蝣験論とも近いような話ですね。そういうの好きなんですか」
S「かもしれない。蝣験というか……袖験(ゆうけん)主義と呼んでも良いかもしれない」
M「なんですかそれ」
S「ほら、言うだろ。袖振り合うも多生の縁って。あの精神でさ。一生出逢うはずもなかった誰かと、ほんの刹那、袖がこう、ふわっと一緒に揺れて、重なって、でもそれもまた前世からの定めだったかもしれないねえ、と思える心持ち。いいじゃないですか」
M「そんなもんですか」
S「そんなもんです、人生なんて。あそうだ、そういう遊び方をする際に便利なのが、Google演算子site:なのですよ。これを言っておかないと話半分だ。たとえば、『新城カズマ site:https://twitter.com/』でググると……」
M「わ、なんだこれ。ツイッターの中で書かれた新城カズマに関する書き込みが」
S「というふうに、必要なときはtwitter全体を見渡すこともできるので、いろいろ試してます。具体的な話題を探したり、抽象的観念でもいいし、人名でも書名でもいいし。ああ、やっぱりGoogle様は素晴らしいなあ(虚ろな目)」
M「ってすっかりグーグル教徒になっちゃってるな。しっかりしてくださいよ、はてな市民なんですからね新城さんは。ちゃんと自覚もってくれないと」
S「おっとそうだった。というわけで、これからもがんばりますんでよろしく」
X「早く原稿書け〜(後ろから現れて首を絞める)」
S「か、書きますがぎまず、今がらがぎまず!……」