萩尾望都原画展に行ってきました記念・実は新城カズマは『バルバラ異界』を分析したことあるんですのこと
S「というわけで表題の件。感動のあまり、以前に某誌連載で新城が書いたエッセイを思い出し、引っぱり出してきてしまいました」
M「この連載、どっかで書籍化しないんですか。そういえば」
S「したいなぁと思いつつ幾星霜……じゃなくて、ほんとは連載自体も再開したいんだけどねえ。どうですかひとつ>各出版社の担当様。それはともかく、以下がそのエッセイ草稿バージョンです:よろしければどうぞ」
『ここではないどこかへ 〜若き人々のための架空世界設計講座〜』
第16回 作品分析(2)〜『バルバラ異界』
東京近辺では「なんじゃこりゃ」的に暖かい冬に続いて「だめだこりゃ」風の寒い春になりつつありますが、架空世界設計を志す皆さんの地元ではいかがでしょうか。ちなみに僕こと新城カズマ/柳川房彦、先日ついに初めて検査入院というやつをやりまして、胃カメラを飲むという希有な体験をするはめになりました*1。ついでに大腸カメラも初体験。前日から消化器系をからっぽにしてゆく過程も含め、自分の肉体を客体化してゆくというのは面白いやら物悲しいやら……とか気楽に言ってられるのも「とくに問題ないですね、健康です」という主治医さんの一言のおかげなわけですが。それにしてもこれだけ不摂生をしつつ、さらに「存在しない世界を想像することで生活費を稼ぐ」などという究極的に不健康な生活ぶりなのに医者から太鼓判を捺されるというのは、世間様および両親に対して有り難いというより申し訳ない気持ちで一杯であります。
さて新装なった当エッセイ二回目、ひきつづき「アマチュアからプロにまで有用な架空世界の分析法・製作技術に触れてゆく」作業であります。何を採りあげようか、あれこれ悩んでいるうちに『ナルニア国物語』の上映も終わってしまい、かといって『300』はまだ公開していない、さて困ったわい……と思った時にちゃんと救いの神が登場するのですから世の中まだまだ捨てたものではありません。なにかといえば、あの萩尾望都のコミック『バルバラ異界』(以下『バルバラ〜』)であります。単行本も全4巻刊行されて一気読みが可能となり、さらにめでたいことに今年度の日本SF大賞も受賞した由、これほどタイムリーな作品もありますまい。とはいえ、この作品を分析したむこう側には、架空世界設計の根幹に関わる大きな課題が控えてもいるのですが。その「大きな課題」とは何か?……を語る前に、まずは『バルバラ〜』がこれまでの萩尾作品とどのような関係にあるのか、そもそも萩尾望都の語る物語世界とは何であるかを、ぐるりと大回りして見てゆかねばなりません。その過程で大小さまざまなネタバレが必須となりますので、未見の方々はこの機会に彼女の名作傑作の読破をお薦めします。いやほんとに、ぜひ読んでください。とくに『ポーの一族』『トーマの心臓』『11人いる!』『スター・レッド』『メッシュ』『銀の三角』『マージナル』『残酷な神が支配する』といった中核的作品はもちろんのこと、ミニシリーズ『妖精狩り』や初期の短編『ポーチで少女が子犬と』『10月の少女たち』『赤っ毛のいとこ』『三月ウサギが集団で』なども見逃してはいけません。上記作品を読み了えていれば、以下の文章がいっそう解りやすくなります。幸いなことにすべて作品集に収録されておりますので、ぜひどうぞ。「そんなにたくさん買えないよ!」「本が見つからないんですけど……」という方は、せめて『ポーの一族』と『三月ウサギ〜』だけでも目を通してください。前者は少女漫画というメディアが到達しえた最高峰の一つであること間違いなく、後者は(少なくとも少女漫画マニアである僕が読み漁ったかぎりでは)これまでに描かれた短編ラブコメ漫画のベスト3に入る大傑作なのですから。ちなみに『ポー〜』は物語内の時系列順に編纂されたバージョンではなく、作品の発表順に並べられたものをどうぞ。そうでないと、「時を超える物語」の本質が読み取れなくなってしまいます!
というわけで、できるだけ気をつけはしますが、以下ネタバレ注意報発令中――すでに熱心な萩尾ファンの皆さんであればお気づきのとおり、彼女の作品群にたびたび現れるモチーフがいくつか存在します。
まずは「火星」。これは非常にわかりやすいモチーフです。彼女の作品には、とにかく「あの赤い星、砂と災いの惑星」が登場するのです。御本人が巻末エッセイやインタビューなどで幾度か答えていますとおり、ブラッドベリの『火星年代記』等をはじめとする「火星SF」の影響が大でありましょう。実際、それが嵩じてブラッドベリの短編をコミック化もしています。ちなみに「火星もの」は十数年から数十年ごとに流行するものらしく(一説には火星大接近の周期と関連があるらしいのですが)、かのウェルズの『宇宙戦争』以来定期的に作品が生み出され、それを子供時代に読んだ世代が縞々模様のように存在するようです。実をいえば僕自身もその縞模様の一部なのですが。
次に目立つのが、「いらない子供」もしくは「はみだしっ子」モチーフ。少年もしくは少女が、常識ある世間や社会・国家・さらには惑星文明そのものから「おまえはおかしななやつだから、変わっているから」と爪弾きにされる展開です。それ自体は特段珍しいものではなく……というよりも普遍的な物語類型の一つといっても過言ではありますまい……他にも多くの作家が傑作を残しています。(たとえばモチーフ名称に使用した「はみだしっ子」というのは、まさにそのまま三原順の『はみだしっ子』シリーズから引用したものです。)これのバリエーションとして、「(永遠の)美少年」という嘗ての少女漫画に特徴的な(そして今では各地に飛び火している)モチーフもあります。永遠の吸血鬼少年エドガー・ポーツネルがその代表と言えば分かりやすいでしょう。
そして、第三に挙げねばならないのが……実は「双子/姉妹」モチーフです。より正確には、「悪意のない善良な姉と、姉に傷つけられる悪い妹」モチーフです。
「まさか! 『いらない子供』のバリエーションである『迫害される超能力者』のほうが重要じゃないのか?」「どうして『子を産む男性/子を殺す親』モチーフを無視するの?」「いや、その前にコミカル&ミュージカル的技法と画面構成の舞台演劇的要素について語るべきだ!」等々、たくさんの反論が(マニア方面から)容易に予想されます。が、それはいったん棚の上においておきましょう。
僕がこのモチーフの重要性に気づいたのは、たまたま『メッシュ』の一短編と、彼女が個人史を語っているエッセイ(たしか『グレープフルーツ』誌上だったと思います)とを、同時に読んだ時でした。短編において主人公の青年はある姉妹と関わるのですが、これがびっくりするぐらいに対照的な二人……天真爛漫であるゆえに悪気のかけらもなく他人に害を及ぼす「善い姉」と、感受性が強いがゆえに姉の言動の「邪悪さ」に人知れず傷つけられる「悪い妹」です。物語としては中々の出来映え――しかし、そこで話は終わりません。この「悪意のない邪悪に傷つけられる」逸話が、実は作者の実体験にもとづく(というか、個人史に深く根ざしている)ものだったということが、エッセイには記されていたのです。
それからの僕は、萩尾作品をまったく新しい視点から読み直さねばなりませんでした! 今まで知り尽くしていたと思っていたものがすべて新しい顔を見せ始める、というのは読者としては興奮すべき体験ですが、しかし物語や架空世界を分析せねばならん立場からすれば、まさしく赤面もの。いったいこれまで何を読んでいたんだ僕は!……と猛省しつつ、気がつけば大半の作品に「双子/姉妹」モチーフが潜んでいるではありませんか。初期の短編には、やたらと「入れ替わり」「そっくりな二人」「双子の冒険」が登場します。初期の記念碑的作品『トーマの心臓』とその基となった短編『11月のギムナジウム』も、「思春期の死の物語」である以上に「そっくりな二人の少年の物語」なのです。これまで一番目立っていた「いらない子供」モチーフでさえ、実は「双子/姉妹」の一バリエーションではと思われてしまいます。すなわち、モチーフを同世代に投影すれば姉妹に、世代間の関係に映し出せば親子(母娘または父と息子)の物語になるでしょう。そしてこれはそのまま「子を殺す親」モチーフに連結します。ドラマ化されたため世間的には最も知名度が高いかもしれない『イグアナの娘』(菅野美穂の出世作です)や、舞台化されて話題となった『半神』も、まさに「双子/姉妹→母娘」構造でありました。今にして思えば、『イグアナ〜』がOL層に高く支持されたのは、「親に傷つけられる自分」という物語に大勢が共感していたからなのかもしれません。
その後、さらに気づかされたのは……「萩尾望都という語り手は、新作を描くごとにモチーフ群を合体集合させてゆき、次第に最終的な『解』に近づいているんじゃないんだろうか?」でした。
再読三読した時点で、もっとも多くの主要モチーフが顔を出していたのは『スター・レッド』でした。すなわち「火星」人として生まれたヒロインは地球社会に隠れ住む「はみだしっ子」であり、故郷を求めてさまざまな冒険をくりひろげたあげく、ついには銀河規模の超文明から「おまえ(たち)は異常だから」と決めつけられ、クライマックスには「子を産む男性」も登場する……という次第。次にモチーフ集合が印象的だったのは『マージナル』で、こちらは『11人いる!』や『銀の三角』において「両性具有者/性別選択者」として顕われていた「子を産む男性」モチーフが(おそらくは意図的に)全面に押し出されています。もっとも、この「性別選択者」モチーフもまたある意味では「そっくりな二人←双子←姉妹」から派生するものであるのかもしれませんが。……
しかし、この一連の連鎖もその後の大作『残酷な神が支配する』においてさらに発展を遂げます。こちらはずばり「子を殺す親」モチーフが二重に描かれます。養子となった美少年の魂を蹂躙する養父と、その美少年を(文字どおり)犠牲にして再婚生活を守ろうとする実の母親、という形をとって。しかもその結果、美少年は義理の兄とのあいだに「善良さゆえに傷つける兄/傷つけられる弟」という構造にはまり込んでしまうのです。
『残酷な〜』の結末を読んだ僕は「これを語ることで、作者の中で何かが一段落したのでは」という感想を抱きました。本来、作者の心理や個人的部分を忖度するのはあまり健全な読み方ではないのですが、しかし場合によっては「作品と作者(の生活)が切り離せない」ものもあると言わざるをえません。いずれにせよ、「次はどうするんだろう?……」というのが一読者としての僕の疑問であり、期待だったのです。
さて、ここでようやく『バルバラ〜』です。
すでに賢明なる読者の皆さん、就中『バルバラ〜』を読了された皆さんはお気づきのことでしょう……この作品こそ、これまでの萩尾モチーフの大集合なのです。すべての構造がそこに詰め込まれ、しかも見事に連動してこれまで以上の効果を発揮しています。しかも驚くべきことには、あの『ポーの一族』掉尾において高らかに宣言されながらその後『銀の三角』『あぶない丘の家』などでわずかに触れられる程度だったモチーフ、すなわち「物語ることの力/物語の現実に対する優位」が、ここでは堂々と正面に位置し、綺羅星の如く集った重要モチーフ群を揺るぎなく繋げているのです。物語前半では「いらない子供/姉妹/子を殺す親」連鎖が詳細に描かれていただけに、これは僕にとってまったく衝撃でした。しかし完結後にあらためて通読してみれば、なるほど冒頭から「これは物語ることについての物語」ですよ、と明言されていることに気づかされるのです。作者は、あきらかに、とてつもなく周到な計算(もしくは研ぎすまされた直感)にしたがって、「いらない子供<姉妹<子を殺す親」モチーフを遡り、それに対する回答として「子を産む男性<物語る親<物語の現実に対する優位」を浮き彫りにしてみせたのです。
ここで僕は、物語のキャラクタに対してではなく、モチーフの成長と完熟ぶりに対して感情移入をしている自分を発見して驚かざるを得ません。この段階まで僕は『バルバラ〜』における未来社会の設定の面白さについては意図して無視してきました。本来であれば(なにしろこのページは架空「世界」設計講座なのですから)そちらを詳しく分析すべきなのかもしれません。しかし……と例の「大きな課題」がここで鎌首をもたげるのですが……僕たちは「架空世界」を、どうして、何のために、どこへむけて創りたがっているのでしょうか? 架空世界を通してキャラクタを描き、キャラクタを通してモチーフを、モチーフを通して物語(のテーマ)を伝える……この一連の作業の中で、世界設定は必要とはいえ十分条件ではありません。たしかに架空世界の設定だけを創ってはほったらかし、また別の世界を創る、という遊びは、それ自体楽しいものですし、咎められるべきものではありません。そもそも不健全さからいえば、「架空世界を創る」ことと「架空の事件を語る」こととで甲乙をつけられるわけもないのです。しかし、そうはいっても、「異世界を創った後は、その世界の物語が始まらなくてはならない/始まったほうがいい/始まってほしいなあ」という気持ちもまた現実であります。
とすれば。……
僕(たち)はここで、架空世界設計という技芸【アート】の根本に横たわる課題を直視せねばいけません。すなわち、
「架空世界設計とは、自分にとって重要な『原典』を展開する技術【アート】である」
「しかしその技術は、あくまでも、物語る技術の一部である」
という事実を。
この僕を含めて、皆さんの大半は「現実世界だけではどうにも満足できない」うえに「しかし架空世界を創っただけでもやっぱり満足できない」タイプであると推察します。もしそうだとするならば、この講座は今やその対象として、「架空の物語」全体をも含めなくてはいかない段階に到達したのかもしれません。
しかし、「物語」とはいったい何でしょうか? それは「架空世界」とどのような関係にあるのでしょうか? どのような技術がそれらを創るにあたって重宝されるのでしょうか?……
と、このあたりでページも尽きてしまいました。次回以降は、上記の大難問に(できるだけ実例を用いて)挑戦していきたいと思います。さてはて、どうなりますことやら!*